■Lilium




「おーい天蓬、いるかー?」

 ゴンゴンと無遠慮なノックを数回。それから5秒待っても返事がないので、捲簾は覚悟して扉を引き開ける。書物の雪崩れはなかった。部屋の中は一週間前に捲簾が掃除したにも関わらず荒れていたが、足の踏み場が残っているだけまだマシだった。
 またトリップか気絶でもしているのだろうと首をめぐらすと、隅のソファの肘掛けから便所下駄の足がはみ出していた。本とガラクタの散乱する狭い足場をひょいひょいと渡り歩き、ソファを覗き込む。そこには案の定、くたびれた白衣の胸に本を抱いて昏々と眠る天蓬がいた。

 ――幸せそーな顔して。

 ソファの背もたれ側から身を乗り出し、ずれた眼鏡をそっと剥ぎ取ると、安らかな寝息を立てる無防備な唇にキスをした。軽く啄ばむだけで離れると、白い目蓋が震えてゆっくりと開いた。

「オハヨ」
「……あなた、土の匂いがします」

 本を抱いていた片手が持ち上がって、長い指が捲簾の頬を撫でた。

「あー、さっき外で悟空と遊んできたからな」

 天蓬はのっそりと起き上がり、顔をしかめながら側にあるテーブルの上に片手を這わせた。あ、と思った時には遅かった。途端、白衣の袖にインク瓶が引っかかって倒れ、テーブルが真っ黒に染まる。同じく真っ黒になった手と袖を見つめながら天蓬が眉をしかめた。

「……眼鏡どこですか」
「ワリ。俺が持ってる」

 捲簾が蔓を開いたままのそれを差し出し、こちらを向いて眉間に皺を寄せている顔に掛けてやった。そのままレンズの奥の黒い瞳が数回瞬きして、ようやくいつもの目つきが戻ってくる。

「コレ、お前が読みたがってたヤツ」

 小脇に抱えていた一冊の本を見せると、天蓬の顔が心底嬉しそうに綻ぶ。下界で手に入れてきた稀覯本だ。

「ちょっと手、洗ってきます」

 いそいそと洗面所へ向かう背中を見送り、ソファの上に本を置く。
 インクって何の洗剤で落ちるんだっけかと考えていると、洗面所から間延びした声が聞こえた。

「けんれーん」
「どーした?」

 呼ばれて洗面所を覗くと、天蓬が流水の中で手を擦り合わせていた。薄墨のような水が排水口へ流れ落ちていくが、その手はまだインクで汚れている。

「落ちません」
「石鹸とかないのか」

 捲簾がしゃがみこんで洗面台の下の棚の戸を開けてみる。あるのは捲簾が持ち込んだ掃除用洗剤の類ばかりだ。

「無ぇなあ……。ん、何だコレ」

 奥の方にあった白いボトルを引っ張り出す。新品のボディソープだった。

「ああ、それでいいです」

 天蓬は捲簾の手からそれを抜き取り、手に出して泡立て始めた。たちまち花の甘い香りが広がる。

「……すげーいい匂いなんだけど」
「そうですねえ。百合かなんかですかね」
「これ、身体洗うのに使えば?」
「ヤですよ。僕は石鹸で十分です」
「もったいねー。てゆーかコレ女物じゃねーの? なんでこんなのがあんだ」

 捲簾がボトルを手に取り、まじまじと見つめる。

「さあ。前に誰かからもらってそのまま忘れちゃったんだと思います。
 ……ちょっと、どこ触ってるんですか」

 背後から白衣越しに触れてくる手を肘で押しのけるようにして天蓬が唸る。それをのらりくらりとかわしながら、捲簾はボトルを洗面台に置き、黒い髪がかかり落ちる項に鼻先を寄せた。微かにニコチンとバニラのいつもの天蓬の匂いがした。

「最後に風呂入ったのいつ?」
「忘れました」
「じゃあ今から入ろーぜ。コレでお前、洗ってみたい」

 この花の香りとこの男の汗の匂いが混じったら、どんな味がするだろう。そんな興味が湧いた。
 しょうがないですねえ、とため息まじりに呟いた唇が頬にくちづけられた。

「あの本を読み終わってからなら、いいですよ」

 目を細めて笑う。手の泡を綺麗に洗い流して水を止め、タオルで手を拭くと天蓬は捲簾の腕からするりと抜けてソファへ向かった。
 さて、天蓬があの本を読み終えるまでに、あのインクを拭きとって、白衣もシミ抜きしないと。捲簾は洗剤を物色し始めた。




捲簾は天蓬を洗うのが好きだったらいいなあという妄想。
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